2010年06月18日

友へ

自分への備忘録として今日の記事は書こうと思います。


3月に親しい友人を亡くしました。
きっと、わたしがフランスに来て、いちばんはじめに、深く友だちになれた人。
フランスに越してきてから、パリ、そして郊外と5年ほど住みましたが、なかなかフランス人の友人はできませんでした。通っていたフランス語学校では友だちはできるものの、その性質からみんな外国人。日本人の友だちもできたけれど、外国人の常であるように、みなある一定期間が過ぎると、自国に帰ってしまったり、どこかよそに引っ越していったりして、長きにわたる友人というのが、わたしにとってはなかなか難しかった。
フランス人では友だちができにくい。彼らはすでにここでの生活があり、家族や友だちがいて、あえてわたしのような言葉の乏しい外国人に辛抱強く耳を貸し理解りあおうとするような、そんな余裕をもった人も実際的に考えてめずらしいのかもしれない。わたしはあくまで遠い国からきた外国人であり、言葉の問題もある。

昨年、夏からフランスで、はじめて首都圏を離れた田舎生活がはじまった。わたしたちの引っ越しトラックがこの地に到着するやいなや、向こうから歩み寄ってきてくれたのが彼だった。
わたしたちの、田舎生活がスタートすると同時に、向かいに住んでいる彼との関係もスタートした。

彼は持病を持っていた。いくつかの。彼の言葉を借りれば、彼はバイクを乗りこなし、車でもスピードを出すのが大好き、また職業柄もあり、生涯うまれもって事故の星があるのか、今までに手術した回数は27回。そのせいで体のいろいろなところにさまざまな金属やら板やらがが入っている。
「僕は痛みにめっぽう強い。きみには想像もできないと思うよ」というのが彼のひとつの口ぐせでもあった。
58歳で白髪頭の彼は、お酒が大好きだった。持病をふたつ持ち、毎日服用薬からインスリンの注射から打っていたのに、それでも夕方からお酒を飲むことは彼の日々の楽しみのひとつだった。周りのみなは、彼にあまり飲みすぎないようにとことあるごとに口にし、わたしも家で彼にお酒を出すときにはすこしうしろめたい思いもしていたものだった。

彼はとにかく、わたしたちに与えてくれた。自分の持っているものをすべて差し出し、与えてくれた。時間と労力、困っていれば知恵もかしてくれた。あるときは困ったわたしたちに法律の分厚い本を持ってきてくれたこともある。そうして、都会の生活、ふたりきりに慣れたわたしたちの生活に、好むと好まざるとに関わらず、毎日うちの呼び鈴を鳴らし、用事があるにもないにもかかわらず、うちのドアをノックして、さまざまな話をしていった。−だいたいは家の修築に関することだったが。彼はわたしたちに助言をし、自分の家のようにうちのいろいろなものを心配し大事にし、手助けした。

わたしたちはいっしょに家の大小にわたるさまざまな仕事をしながら、いろいろな話をした。彼の家庭の話、昔した仕事の話、通常はいつも元気な人だったが、たまに落ちこんでいたり涙を見せるときもある。そういう彼を見ると、わたしのこころは痛んだ。彼が幸せで毎日を送ってくれていればいい。悲しんでほしくない。わたしにきっとなにかできたわけではないが、彼の話を聞き、すこしでも気分があがるよう、馬鹿なことを言ってみたり、してみたり。次の日、彼に笑顔が戻っているとほっとした。

あるとき、彼とわたしはなにかについて話していた。その話の内容からどうしても理解したかったのだが、わたしのフランス語の能力でそれは難しかった。「ごめんね、あーわたしのフランス語のせい」というと彼はにやっと笑って、「僕もいっしょうけんめいきみのフランス語理解しようとしてる」と言った。
わたしは自分ではいっしょうけんめいしゃべっていたつもりだが、わたしの遅い、語彙の少ない、文法もある意味めちゃくちゃなフランス語を理解するには、相手にほんとうにわかろうとする気持ちがなければ難しものなんだ、と気づいたのはそれからしばらくしたあとだった。

わたしは、久しぶりにこころがつながった、という感覚をもっていた。年齢とか性別とか状況とかそういうの関係なく、ただ人とこころからつながる感覚。肩を抱きあって、いっしょに途轍もない大きな夕陽を眺めているようなイメージがそこにはある。そういう誰かとめぐりあえるというのは、それだけで、人生に違う色あいををもたらすような気がする。

その彼が、3月にこの世から去った。
その何ヶ月か前、彼にとってたったひとりの家族であった奥方が、家をでていった。
彼自身、奥方とは相容れないところがあり、別れたいというようなことを時おり口にしていた。そのプレッシャーを奥方に感じるように仕向けていた節もあった。でもわたしは、彼はさみしいのだろう、と思っていた。それがちぐはぐな、まちがった方向にでてしまったのだろう、奥方は彼を残しひとりで家を去った。
わたしたちは心配した。彼は変わった。それまでのエネルギッシュさは次第になくなり、さみしいさみしいと、40年いっしょだったのに自分を置いてでていくなんてと、毎日のようにうちに来ては泣いた。そんな彼を見ているとわたしも何もできなくなった。奥さんに帰ってくるように頼んで、とわたしは彼に言うことしかできなかった。

だんだんと、ひとりの生活にも慣れた彼が、涙を見せなくなり、すこしずつ生来の彼を取り戻しつつある、かもしれないという細い光の筋がみえはじめたころのことだった。
わたしが3月に日本に帰っているあいだに、彼は酔っぱらって、ふだん服用している薬を多く飲みすぎた。そして、それが、彼の心臓を止めた。

「きみは日本に行くのか」とさみしげに言っていた彼の顔が目に浮かぶ。
「二週間ちょっとで帰ってくるよ。すぐだよ」とわたしは言う。
彼はまださみしげな顔をしたまま、ボン、といい、うちの門からでていった。と、何かを忘れたように突然ふりかえり、Bonne Vacances! と笑ってわたしに言った。わたしは、ありがとう、二週間後にね!と笑顔で返した。
それが、彼と話した最後になった。






引っ越してきてすぐ、近所の家になっているミラベルを持ってきてくれたこと、





いっしょに仕上げた客室のクローゼット
マーセルがいなければ仕切り板をつけることはとても無理でした





門の錠をつけかえてくれたこと、





孫がたずねてきたときに、わざわざみなを連れて、ボンジュールを言いに来てくれたこと、





うちの中庭のスギをいっしょに引き抜いたこと
終わってからわたしはしばらく腰痛、マーセルは足の痛みがでてきてしまって引きずっていたね





このポストもいっしょに買いにいったね。わたしというよりマーセルが一目ぼれしちゃった気がするんだけど。あとでセバさんに“高い!”といっしょに怒られました
新しいポストが盗まれないように、下にコンクリートを敷いてがっちりつけてくれたのも彼でした





うちの食堂にある鏡の額縁をつくってくれたこと、
わたしはほとんど写真を撮ってるだけだったね





マーセル自慢だった、彼の家のサロンのカウンターバー





中庭にいっしょに草木を植えました このあともしばらくお互いカラダが痛かったね





隣のご主人が出演した舞台をいっしょに見にいったこと、





庭でごみが出ると、よくいっしょに火をたいて燃やしたこと





彼が設置してくれた、暖炉にかわる新しい暖房





クリスマスに、4日前から彼が仕込んだというコック・オーヴァン





マーセル家の暖炉の前で、シャンパンを飲んで祝った新年





マーセルのキャンピングカーの背部につけられたステッカー





大雪が降ったときには、家の前の雪かきをてつだってくれたね
うちの薪が切れてしまって、雪の積もるなか、車で薪を買いに連れてってくれてありがとう





奥さんがいなくなったあとに、飼った犬ジュワイヨー。最後、マーセルといっしょだったのは彼でした


いま、Gregory Lemarchalの歌を聴きながらこれを書いています。フランスで、いちやくトップの座になったらすぐに、嚢胞性線維症で24歳の若さでこの世を去った歌手。ラジオで耳にして大好きだったその曲を、わたしはタイトルも知らぬまま何年も過ごしていて、偶然マーセルの家に行ったときに彼が<La Voix D'Un Ange>というCDを流し、あとでCDを借りました。


彼のいなくなった近所は、初夏だというのにとても静かでひっそりしている。
彼の残していった道具類がまだうちの庭のいたるところに散らばっている。
日常のいろいろな場面で彼を思い出す。そして、彼がどのようにわたしたちの生活に関わっていたか、どれぐらい、を思い知る。
それでも、何かあったとき、わたしにはまだ彼の声が聞こえる気がする。そのたびにわたしは、「マーセル、わたしがんばるからね。だいじょうぶだよ」とこころのなかで彼に返事をする。

たった6ヶ月ほどの短いあいだだったけど、あなたに会えてほんとうにうれしかったよ、マーセル。
ありがとう。



posted by ナオカ at 21:45| フランス田舎生活あれこれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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